7月といえばスパイラルマタイ。
というわけで、発売日くらいに買って積んでいた「素晴らしき日々~不連続存在~ フルボイスHD版」を7月中盤から最近までプレイしていました。
とりあえず手元にあった参考文献たち。
画像は素晴らしき日々通常版ですが、今回プレイしたのはHD版です。
実は2011年に通常版を一度プレイし、2015年に一度感想を書いてます。
その時はウィトゲンシュタインのこと殆ど知らなかったし、プレイ後時間経っていて内容うる覚えだったのもありお粗末な内容でしたので、今回リベンジしたい次第です。
そのお粗末な内容の感想記事も戒めとして残していてこのサイトのどこかから飛べますが本当に酷いので探さないでください。続編のサクラノ詩の感想も書いてましたがあまりにも酷すぎるので非公開にしました。
と、2周目始める前から「ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む」を読み返したりして身構えていましたが、「論理哲学論考」を知らなくてもストーリーは十分楽しめるし、幸福に生きよ!っていう一番大事なテーマもなんとなく理解できると思います。
もちろん論理哲学論考...というかウィトゲンシュタインを知っていたほうが物語への理解度は全然違ってくると思いますが。
とまあここまで意気込んできましたが、今回考察などはしません。あくまで感想記事です。
自分の復習がてら論理哲学論考のざっくりした解説などは書こうかなと思ってます。
考察はこの2つの記事が素晴らしかったです。
両記事とも、シナリオライターのSCA自さんがTwitterで直接取り上げていらっしゃいました。
エネルギーがすごい。
僕にはここまで深く読み込むことはできないです。
1つ目の記事の星と月の対比とか、全く気づきませんでした。
あとこのブログも参考にさせていただきました。
一番最初に論考めっちゃ大事って気付かせてくれたのはこのサイトです。
論理哲学論考を超ざっくり解説
あくまで超ざっくりです。証明とかその辺全飛ばしします。
上で紹介した記事にめっちゃ詳しく書いてあるので詳しく知りたい方はそちらで。
論理哲学論考の目的
哲学問題(死だとか存在理由だとか他者だとかそういうの)の解決。
問題はその本質において最終的に解決されたと考えている。
『論理哲学論考』序
世界は言葉
世界と言葉と言うがSchool Daysのことではない。
そこでウィトゲンシュタインは、思考できるものと思考できないものに線引きをしようとしました。
そのためにウィトゲンシュタインが選んだのは言語。
世界で起こっていることは全て言葉に置き換えられることができると考え、言葉によって思考できるものと思考できないものを線引きをしようとしたわけです。
一 世界は成立していることがらの総体である。
事実、事態、対象、論理空間
事実:現実に起こっていることがら(事態のうち現実に起こったもの)。
事態:起こりうることがら(可能性)。対象の結合によって成立する。
対象:事実を構成する個々のもの(例:ウィトゲンシュタイン、論理哲学論考)。
論理空間:可能性の総体(事態の総体)。
一・一 世界は事実の総体であり、ものの総体ではない。
一・一三 論理空間の中にある諸事実、それが世界である。
二 成立していることがら、すなわち事実とは、諸事態の成立である。
二・○一 事態とは諸対象の結合である。
細かい説明は省きます。たぶんなんとなくわかりますよね?
素晴らしき日々の2章、電波なシーンがいくつかありますが、あれは(薬の効果もあると思いますが)論理空間での話だからですね。
事態は、論理形式さえあっていれば成立するので、牛が二足歩行で踊りだしたりしてもおかしくないわけです。
世界の限界、私は私の世界である
論理哲学論考の命題五・六まで飛ばします。飛ばしたのは像とか命題とかの話です。知らなくてもなんとかなると思いますので。
五・五五二 論理を理解するためにわれわれが必要とする「経験」は何かがかくかくであるというものではなく、何かがあるというものである。しかしそれはまさにいささかも経験ではない。
論理は何かがこのようにあるといういかなる経験よりも前にある。
論理は「いかに」よりも前にあるが、「何が」よりも前ではない。
五・六 私の言語の限界が私の世界の限界を意味する。
五・六一 論理は世界を満たす。世界の限界は論理の限界でもある。
それゆえわれわれは、論理の内側にいて、「世界にはこれらは存在するが、あれは存在しない」と語ることはできない。
なるほど、一見すると、「あれは存在しない」と言うことでいくつかの可能性が排除されるようにも思われる。しかし、このような可能性の排除は世界の事実ではありえない。もし事実だとすれば、論理は世界の限界を超えていなければならない。そのとき論理は世界の限界を外側からも眺めうることになる。
思考しえぬことをわれわれは思考することはできない。それゆえ、思考しえぬことをわれわれは語ることもできない。
五・六二 この見解が、独我論はどの程度正しいのかという問いに答える鍵となる。
すなわち、独我論の言わんとするところはまったく正しい。ただ、それらは語られえず、示されているのである。
世界が私の世界であることは、この言語(私が理解する唯一の言語)の限界が私の世界の限界を意味することに示されている。
五・六三 私は私の世界である。(ミクロコスモス)
五・六三二 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。
無駄に引用しすぎたかもしれませんが、ここで重要なのはただ2つです。
ひとつは、私の言語の限界、つまり論理空間の限界が世界の限界だということ。
私が思考できることは全て起こりうることで、そこに経験は関係ない。なので牛が二足歩行で踊りだしたり、空へ飛んでいくこともありえる。
逆に、私が思考できないことは思考できず理解もできないので語ることもできない。
もうひとつは、論理空間の唯一性。
もし仮に他に論理空間があったとしても、それは語ることも示すこともできない。なのでその存在可能性は抹殺することができる。私の論理空間以外は存在しないので、私以外の主体は存在しないということになり、独我論が完成する。
どちらも結構な暴論だと思いますがそんな感じです。
論理空間は理想的ではあるけれども、摩擦がなくて歩くことができないツルツルした氷の上だってことがわかってくると思います。
この辺を突き詰めていったのが素晴らしき日々の終ノ空ⅡENDでしょうね。
これだと論理空間が一つしかないってのも説明が付きます。
永遠の相
素晴らしき日々で何度もでてくるフレーズ、永遠の相。
サクラノ詩でも登場します。あのシーン予備知識なしで理解できる人おるんか...?
説明無しで使われるし、初見当時ぐぐってもよくわかりませんでした。
というかここに書いたことだけじゃなくいろいろな意味があるみたい?
論理哲学論考でも突然登場します。
六・四五 永遠の相のもとに世界を捉えるとは、世界を全体として――限界づけられた全体として――捉えることにほかならない。
限界づけられた全体として世界を感じること、ここに神秘がある。
「ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む」に草稿の引用が載っていました。
芸術作品は永遠の相のもとに見られた対象である。そしてよい生とは永遠の相のもとに見られた世界である。ここに芸術と倫理の関係がある。
日常の考察の仕方は諸対象をいわばそれらの中心から見るが、永遠の相のもとでの考察はそれらを外側から見る。
それゆえこの考察は世界全体を背景として持っている。
あるいはそれは、時間・空間の中で対象を見るのではなく、時間・空間とともに見る、ということだろうか。
各々の対象は論理的世界全体を、いわば論理空間とともに見られた対象にほかならない。(こんな考えがしきりに浮かんでくるのだ。)
野矢茂樹『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』
対象を論理空間とともに見る。
そのとき対象そのものは変化せず、諸概念の結びつきのみが変化する。
論考を読むの例をそのまま使用しますが、
「ウィトゲンシュタイン」という対象は変化することなく、「子供である」「大人である」「死んだ」といったような諸概念が結びついただけってことですね。
この理論が死について関係してきます。
死は人生のできごとではない
六・四三一一 死は人生のできごとではない。人は死を体験しない。
永遠を時間的な永続としてではなく、無時間性と解するならば、現在に生きる者は永遠に生きるのである。
私が死ねば私の論理空間も消滅する。
なので永遠の相のもとで(論理空間とともに)見たとき死は人生のできごとではなく、永遠に生きる。
幸福に生きよ!
この世界の苦難を避けることができないというのに、そもそもいかにしてひとは幸福でありうるのか。
ウィトゲンシュタイン『草稿』一九一六年八月一三日
六・四一 世界の意義は世界の外になければならない。世界の中ではすべてはあるようにあり、全ては起こるように起こる。世界の中には価値は存在しない。――かりにあったとしても、それはいささかも価値の名に値するものではない。
六・四三 善き意志、あるいは悪しき意志が世界を変化させるとき、変えうるのはただ世界の限界であり、事実ではない。すなわち、善き意志も悪しき意志も、言語で表現しうるものを変化させることはできない。
ひとことで言えば、そうした意志によって世界は全体として別の世界へと変化するのでなければならない。いわば、世界全体が弱まったり強まったりするのでなければならない。
幸福な世界は不幸な世界とは別ものである。
世界の事実を事実ありのままに受けとる純粋に観想的な主体には幸福も不幸もない。幸福や不幸を生み出すのは、生きる意志である。生きる意志に満たされた世界、それが善き生であり、幸福な世界である。生きる意志を奪い取る世界、それが悪しき生であり、不幸な世界である。あるいは、ここで美との通過点を見出すならば、美とは私に生きる意志を呼び覚ます力のことであるだろう。
そして美とはまさに幸福にするもののことだ。
ウィトゲンシュタイン『草稿』一九一六年一〇月二一日
倫理や価値などといったようなものは世界の外のことで語ることができない。
なので幸福に生きよ!と言うほかはなく、世界という器を生きる意志で満たすことが幸福だ。
この世界の苦難(運命)を避けることはできないが、生きる意志に彩られた世界に生きる者は何が起ころうとも幸福である。
だいぶ端折りまくったので分かりづらいかも。
完璧に理解しているわけじゃないのでなんか間違ったこと言ってたら指摘してください。
何度も言うけど復習のつもりでざっくりと書いただけだから詳しく知りたい人は別の所ちゃんと見てね。
自分以外の主体は存在しないし、死は恐れるものじゃないし、世界はなるようにしかならないし、生きる意志さえあれば何があっても幸福。
理詰めでそういうふうに証明していますが、冷静に考えれば甘い考えだと思います。
しかし辛い思いをしている人には勇気をくれる考えかもしれません。
そしてこの考えによってある程度立ち直ったところで気付くはずです。この考えはナンセンスだと。
六・五四 私を理解する人は、私の命題を通り抜け――その上に立ち――それを乗り越え、最後にそれがナンセンスであると気づく。そのようにして私の諸命題は解明を行なう。(いわば、梯子を登りきったものは梯子を投げ棄てねばならない。)
私の諸命題を葬りさること。そのとき世界を正しく見るだろう。
いわばツルツルした氷の上(論理空間)からザラザラした大地(行為空間と野矢茂樹さんは呼んでるらしい)への復帰ですね。
論理哲学論考以外のウィトゲンシュタインの書籍を読んでいないので詳しいことは書けませんが、こんな感じだろうなってのは以下の感想の方に書きます。
感想
いつものようにプレイ中にメモに書いたことほとんどそのまま書き出すだけなので読みづらいかもしれませんがご容赦ください。文章化苦手なんだよなあ...マジ文章書けないんだけど。
Down the Rabbit-Hole
由岐視点。
ざくろという白ウサギによって論考の世界へ旅立つ話かな?
白ウサギだったりカムパネルラだったりシラノだったり忙しいなざくろ。
8年ぶりなので結構内容忘れてる。
2周目補正あっても遊園地行くまではちょっと退屈。
画面暗転して急に英語で鏡の国のアリス読みだすの怖い。
1周目プレイしてたときは流されるままふわふわした生き方をしていたざくろが同族嫌悪であまり好きじゃなかった。なのでシラノとあまり結びつかなかったけど、今回のプレイでざくろは死んだ後も好きな人のために頑張っていたとわかって納得。心意気がすごい。
同族嫌悪で思い出したけど、このブログの唯唯漂うただの海藻って名前も、何の意志もなくただ流されて生きてるっていう意味でつけています。
後もう一つ余談。シラノの外見は火の鳥の猿田一族を想像して読んでました。
閑話休題。
色々とパロディはあったけどシラノ・ド・ベルジュラックと銀河鉄道の夜くらいは読んでおいたほうがいいかも。
幽霊部屋はよくわからなかった。終ノ空やってないとわからないやつ?
Down the Rabbit-Hole2
夜の向日葵とかいう神BGM。空気力学少女と少年の詩とかいう神曲。懐かしすぎる。
今見ると多重人格の伏線だらけ。
ヒューマンエラーとかWeb Bot Projectの話おもしろい。
救世主様のご高説で共感性羞恥発動した。
ここすき。
このシーンの前のベアード様は冒頭の序文、
五・六三二 主体は世界に属さない。それは世界の限界である。
から主体のことだってことはわかるけど、彩名のこの笑顔は何だったんだろう。
というか彩名の正体がなんなのかよくわかってない。神?ヨグ=ソトース?(ヨグ=ソトースとヨーグルトソースって似てね?)ウィトゲンシュタイン?集合的無意識?SCA-自氏?
It's my own Invetion
卓司視点。
語り得ぬものを語ろうとして不安を取り除こうとする話かな?
公式ビジュアルブックにギブアップ率の頂点って書いてあったけど、今回のプレイでは電波なシーンはただの妄想に過ぎないってわかってたからとくに怖くはなかった。初回プレイでは怖かったかな?覚えてないや。
ラリってるからしゃーないけど同じような文章を連打する演出が多くて頭おかしくなりそうだった。
清川先生のシーンはライターさんには申し訳ないけど今回も気持ち悪くなって飛ばしました。
初回プレイ当時北見聡子のせいでアマガミの棚町薫が苦手になったの思い出した。
シャブ中だらけでやべえ。希実香わかっててやってるだろうしこええよ。
神様は旋律?つまりどういうことだってばよ...?世界の外すべてのこと指してるっていう認識でいいかな?
Looking-glass Insect
地獄のざくろ視点。
というか薬吸わされて以降今回も飛ばしました。申し訳ありません。
今更だけどこの学校民度低すぎでは?
いじめなんて録音なり何なりして証拠掴んで警察行けばいい話では?違うの?
そもそもだるくなったら行かなくていいぞ(元不登校児並みの感想)。
この章の希実香エンド、皆守達より先に真理にたどり着いちゃってますね。
不安を乗り越えて前へ進んだ後のありふれた日常、そうした意志を持った歩みこそが素晴らしき日々。
論理空間は経験や他者によって変化していくし、運命は意志によって切り開いていける。
対戦ありがとうございました。
でもこのENDだと皆守と羽咲達が救われない。悲しいけどざくろには犠牲になってもらうしかない。まさにシラノ・ド・ベルジュラック。
本筋とは一切関係ないけどここアルジャーノンに花束を。
超有名作品だからほとんどの人読んでると思うけど読んでない人は面白いので読みましょう。
Jabberwocky
皆守視点。ここから最高に面白い。
この章以降の話は、語り得ぬものを沈黙させる話って言うより語り得ぬものそれ自体に戦いを挑んでる感じかな?
酷すぎわろた。でも残当。
由岐もざくろのこと割とどうでもいい感じだし悲しいなあ。
でも3章希実香ルートのざくろは皆守から好感がもてるみたいなこと言われてたし。僕も3章希実香ルートと序章のざくろは好きです。
ぬいぐるみは過去の象徴?ぬいぐるみを失う→過去から解放されて今を生きるみたいな。
今を生きるといえば、ニュー・アースっていう本が人生をよくするには今に在れ今に在れってめっちゃ推してきてた覚えがある。
- 作者: エックハルト・トール,吉田利子
- 出版社/メーカー: サンマーク出版
- 発売日: 2008/10/17
- メディア: ハードカバー
- 購入: 23人 クリック: 116回
- この商品を含むブログ (18件) を見る
明晰夢は恐怖に打ち勝つ勇気の象徴かな?
Which Dreamed It
羽咲視点。
冒頭で論考の命題6.373の意志と世界は独立しているってのが引用されてるけど、その話よりストーリーの種明かしの部分が大きいかな。
スネークするって久しぶりに聞いた。もう誰も使ってないよなこの言葉。
JabberwockyII
皆守視点その2。過去の話と屋上から落ちた後の話。
落ちた後の話は、4章で皆守がどのような意志を示したかで変わってくる。
当たり前だろ→意志を示して運命に抵抗したルート(素晴らしき日々)
それだけじゃない→意志を示して運命に抵抗かつ論理空間ではなく行為空間で生きるルート(向日葵の坂道)
どうでもいい→論理哲学論考の考え方でひたすら生き続けたルート(終ノ空Ⅱ)
こんな感じかね?
素晴らしき日々
意志を示して運命に打ち勝ったルート。
論理哲学論考でおかしい点は主にこのあたりだと思う。
出来事に経験は関係ない、論理空間の唯一性、運命は変えられない、死について、生きる意志さえあればいつだって幸福。
五・一三六一 現在のできごとから未来のできごとへと推論することは不可能なのである。
因果連鎖を信じること、これこそ迷信にほかならない。
因果というとサクラノ詩で何度も登場する言葉だし、まあそういうことなんでしょう。宮沢賢治の春と修羅から引用されてた因果交流電燈って言葉すこすこ。
因果法則を信じれば、出来事は経験から予測できるし、運命は変えられないというのも嘘になって意志によって運命を変えることも可能になるって感じでしょう。
このルートで解決しているのはもう一つ、論理空間の唯一性からの独我論。
ウィトゲンシュタインは他の論理空間の主を意図的に排除している。
私の言語の限界が私の世界の限界なら、人によって世界の限界は変わってくるし、私の世界の限界も経験によってどんどん変わってくるんだと思うけど違うかな?
このルートのラストのピアノのシーンは、皆守の世界の外の誰かへ向けた祈り。
誰かの論理空間を変化させようとする行為ではないかと感じました。
つり乙でも言われてたように、誰かといると世界は変わるって感じ。
意志を持って前に進んでいればどんどん論理空間は広がっていくし誰かといるともっと広がっていく。そして語り得ぬものはどんどんなくなっていく。
ちょっとつり乙に毒され過ぎな考えかな?考察じゃなくて感想なので許して。
エンディングのこれは、意志に彩られた世界のことかな―って思ったり。
絵が世界で塗りが意志。
終ノ空Ⅱ
論理哲学論考の考え方でひたすら生き続けたルート。いわゆる梯子を投げ棄てなかったルート。
原因とか経験とかは関係なく世界はあるようにしかあらない。
論理哲学論考の考え方が摩擦がなくて歩くことのできないツルツルした氷の上だってことがよくわかります。
向日葵の坂道
ここで解決したのは素晴らしき日々ルートで解決したこと+幸福について。
生きる意志さえあればいつだって幸福。この幸福は現世的な幸福というより宗教的な幸福と言った感じだろう。
私達は現世的な幸福を求めて自分の足で歩きたい。
そのためには、ウィトゲンシュタインが言うようなツルツルした氷の上である論理空間ではなく、
素晴らしき日々ルートのところで言ったようなザラザラした大地である論理空間(たぶんこんな感じのやつが行為空間なのかな?)を歩かなくてはならない。
最初の一歩は怖くて勇気が必要かもしれない。でもその一歩もいずれはありふれた一歩となる。
そうやって自分の意志で幸福に向かって歩いていくこと、そうして論理空間が拡張されていくありふれた日常こそが素晴らしき日々なんじゃないかと。
こうして文字に起こしてみてもやっぱり3章希実香エンドは壮大なネタバレでしたね。
Knockin' on heaven's door
フルボイス版の追加ストーリー。
向日葵の坂道のその後の話。
ここで解決したのは死について。
ウィトゲンシュタインの言う論理空間では主体の死は存在しなかった。
でも素晴らしき日々ルートのところで述べた論理空間ではそうはいかない。
人は生きていたらいずれ死ぬのは必然である。
しかし素晴らしき日々を歩んでいる人の生は幸福に包まれている。
だから未知の領域である死後の世界でも幸福に包まれているに違いないから私達はこの先も歩いていける。
簡単に言ってしまえばこんな感じですかね。
いやー面白かった!対戦ありがとうございました!
まとめ
とりあえず書きたいことはだいたい書けたかな?
間違いなく足りない所ありまくるし、もっと推敲もしたほうがいいんだろうけど疲れた。
あんまり綺麗に書けてないけどなんだかんだで書くのにプレイし終わってから3日も費やしてしまった。
まだ納得できてない部分も多々あるのでここはおかしいぞとか飛躍しすぎやぞって所あったらどんどん指摘してください。できれば優しくお願いします。
論理哲学論考が間違っていたのは、語り得ぬものに対する態度でした。
語り得ぬものに対しては沈黙するのではなく、自分なりの意志を示して少しずつ明らかにしていかなくてはならないはず。
語り得ぬものにたいする解答は、すば日々のようなものでもいいし、宗教や別の哲学でもいいと思う。
そこに自分の意志があるかどうかが大切だと僕は思いますね。
さて、次回はサクラノ詩を再プレイします...と言いたいところですが次はSummer Pockets(Switch版)をやります。あとPS4のDetroitとカリギュラも並行してやります。ていうかやってます。
サクラノ詩はサクラノ刻の発売日が決まった次の春くらいに再プレイする予定です。
なので早く書いてくださいお願いします。
ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む (ちくま学芸文庫)
- 作者: 野矢茂樹
- 出版社/メーカー: 筑摩書房
- 発売日: 2006/04/01
- メディア: 文庫
- 購入: 14人 クリック: 60回
- この商品を含むブログ (103件) を見る